昭和49年09月14日 朝の御理解
御理解 第19節
「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。」
金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。言うならば御神徳の極地とでも申しましょうかね。銘々が御神徳を受けてそのようなおかげ、そのような有り難い事にならせて頂けれる事を目指させてもらうのが、金光様の御信心です。その前の18節の最後の所に、この方がおかげの受けはじめである。皆もその通りにおかげが受けられると教えておられます。ね。
だから言うならば、総生神を人間氏子は目指す。言うならばせめて金光大神の御神徳を目指させてもろうて、私共が日々信心の稽古をさせて頂かなければなりません。そこで信心の稽古をさせて頂くのに、まあ一番大事な事は、昨日お道の新聞を見せて頂いておりましたら、三代金光様のお言葉というのがありました。信心は神がさすと仰るのですから、銘々の我を出さぬようにしてと言っておられます。ね。信心は神がさすと仰るのですから、銘々が我を出さぬようにと教えておられます。ね。
我情我欲と言う事を申しますね。言うならば、情はあっても良し欲はあっても良いのです。けれどもその我があってはいけんのです。それに我がついておると。ね。それこそわが身は神徳の中にありましても、ね、我があったんでは神徳の中に浸っておる実感すらも湧いて来ないのです。ね。朝目が覚めた。こんなに有り難い事はない。今日もお生かしのおかげを頂いておるという、その実感がです。あの我を取って行きませんと、そういう大変なおかげに対してでもお礼心が湧いて参りません。
ああ眠か眠か、今日もまた起きらにゃんちゅうごたる風な。ね、そんならもうそのまま眠り続けたらどう言う事になりますか。もう明日は火葬場行きです。ね、ですからそういう大変なおかげで、中に浸っておりましてもです。その我があってはそれを、おかげをおかげと感得しきらないのです。先日25日の美登里会の時にまあ笑い話で話した事でしたけども。何の話からだったでしょうか。
我が強いと言う事にの話が出ました。そん時に私があの熊谷のお婆ちゃんやら、佐田のお婆ちゃんやらは、もうその我の強かつの総大将じゃろうと言うて私は申しました。だからこそもうやがて80にもなりながら、二十数年間朝参夜参りが出来るんです。言うならばまあ根性とでも申しましょうかね、しかもその我がですねもう自分の事なんかの場合には、もう全然と言うてはまあ語幣があるかも知れませんけれども。
言うなら小さい我ではなくて、大我であると言う事が素晴らしいと言うて、お話をした事でした。矢張り我もねそういうその小我を捨てて、大我に生き抜けと私は御教えを頂いております神様から。だからもう大我に生き抜くと言う事なんです。ね。はああの人は我が強かと。ああ、なかなか根性がしっかりしちゃるけと。ね、成程そういう我が強くてしっかりしておるからこそ、言うなら二十何年間もお参りし続けるようなおかげを頂いたんですけども、その我が段々だんだん信心の稽古によってです。ね。
それがもう自分一人の小さい我ではなく、ね、大きな意味合いにおいての我になって来た育ってきた。人の顔さえ見れば合楽示現活動に参画させて頂いておる自覚に立ってです、有り難い話を一生懸命なさる。これはなら佐田のおばちゃんだって、熊谷のおばちゃんだって同じなんです。そういう例えば総代さん方の中にね、まあ熱烈な大我に行き抜かれる方達があるから、合楽は今日こんな支えの、総代さん方の支えがあって、今日の合楽があると言うても良いのです。
もう言うならば合楽中心お教会中心。ね。ですからもう実に素晴らしい我なんですよね。言うならわが身は神徳の中にある事を分からせて頂けるような我でなからにゃ。それは、自分をはがした所をの大きな我。ね。矢張り根性がなからなきゃ信心は出けません。ね、ふうたらぬくうしては出けん。もう私だんもうとてもまあ朝参りはとても出来ん。もうそげな人には実際出来んです。ね、
一つの事に一つの一念を燃やすという事がです、やはりそのその人の根性です。場合にはそれが我になって出る事もあります。けれどもその我がです。ね、浄化された上にも浄化されてです。清められた上に清められていつの間にか、世界天下国家の事を祈らせてもらえるほどしの我になっておるという事です。合楽を示現させて貰う。そういう活動に参画させて貰う。止むに止まれぬ思いで参画させて貰う。
そこにです神様のお働きを、もう目の当たりに見たり感じたりするほどしのものを、心にも形の上にも頂き、現しておられる訳であります。ね。だから皆もそのようなおかげが受けられると、いわば教祖様は約束しておって下さるのですから。ね、そういう一つおかげを頂きたい。御霊の世界に入ってもです。それこそ来てくれいという所には、それこそあまかけりくにかけりしてです。
御霊様の世界においての働きもさる事ながら。ね。遺族の者または周辺の人達の上にもです、祈り願わせて頂けれる、そういう働きの出来れるような御霊としてのおかげを頂きたい。昨日ここに、なたが持って来て下さったんでしょうか。大久保孝先生の一年祭があったんですか。忍び草にあのここへ頂いております。まだ読んでもおりませんけれども、一番始めの所にあの、先生が神様から頂かれたもの。
この先生は合楽に非常に、まあ合楽びいきの先生で、私共がまだ神愛会と言っておった時代にも、どうでもまず神愛会であると言った様な時代に、いわばお道の教師の人達が、まあ敬遠しておった中に、勿論弟子である古賀先生が合楽におかげ頂いておりましたからではありましたけれども、見えられてそしてもう、本当に弟子の行く末の事まで、こんこんとお願いに見えられて。それ以来私がその神様が教友来たりと言う事を頂いたんです。教友ちゅう事は道の上での友、兄だという意味なんですね。
いや教兄だった。ね、道の上での兄。誰じゃろうかと思いよったら、それが大久保先生が見えました。だからその話したらいやあ、先生の兄さんになれるっちゃ、私も有り難いですねち言うて、まあそれからまあ親交。それからのお付き合いです。もう色々に教会の設立のために、まあ尽力をして下さった。本部の方でその偉いお役を勤めておられましたからね。その先生が亡くなられてまあ一年に。
私共去年のちょうど、だから今頃だった訳でしょう。こっからも私秋永先生、高橋さん繁雄さんと。あのお葬儀に参列させて頂きましたがね。だから丁度一年になる訳です。誰が持って来たか知らんけど、ここに置いてありましたが。その昭和45年色紙にしたためたもの、立教111年の秋神のお声、大久保孝と裏に書いてあるのです。色紙の折り目に神のお声と書いてある。
その中にこういう色紙に書いておられます。氏子難儀は神の中に、神が氏子の中におるぞというお言葉を頂いておる。ね。氏子難儀は神の中にいる、神は氏子の中におるぞというお言葉を、そのまま頂かれて書かれたものでございましょうね。そこで今日の御理解を頂きますと、いかに大久保先生がです、我を取られたお方であったかと言う事が分かります。これは私は大久保先生だけじゃないと思います。
いわゆる神我と共にある。もう誰の心の中にでも、神様宿ってござるのだと。氏子難儀は神の中にある神は氏子の中にあるぞと。ね。そういう例えばおかげを銘々が実は頂いておるんだけれども、いわば我情我欲で、もう言うならば薄うなったり汚れたりもう神がここの中にござるかござらんか分からない程に、いわば性根が変わってしまう程しになっておるのが、私共信心の薄い者の又はない者の姿ではないかと思います。
そこでお互いが今日わたしが申します、ね、金光様のお言葉によりますとです。信心は神がさすと仰るのですから、銘々が我を出さぬようにしてと言うておられる。所が実は我がある。だからその我をです信心の修行の方に向けるのです。信心の修行の方へ。そうすると我が段々清まりに清められて、それこそ熊谷さんや佐田さんじゃないけれどもです。もう、とにかくまあ信心がなかったなら、もうほんなこんにゃく婆にならっしゃるとじゃなかじゃろうかと思うです。我が強い。
所が信心の何十年間の言うなら磨きに磨き、清めに清めて来とる内にその我が、ね、育つものだった。言うなら小我を捨てて大我に生き抜かせて貰う。自分の生涯を本当に合楽示現活動の、ね、おかげそういう活動に参画させてもろうてです、生涯をもうそこに掛けようと言う様な願いを持たれる。そういう言うならば大我の中にです私は、ね、神様が生き生きとお働き下さると思うのです。
皆もそのようにおかげが受けられると、教祖が仰っておられるのをです、皆の心の中にも、今申しますようにです。氏子難儀と難儀は神の中におる、神は氏子の中にあるぞと。ね。我情我欲を離れてみる所に、自分が言うならば真の道にある事が分かり神愛、神徳の中に生かされておる事実をです、実感する事が出来る。だからひとすくいの水でも押し頂かなければおられない事になって来るのであり目が覚めた。今日目覚ましのおかげを頂いたと言う事の不思議さ。
こういう奇跡はない、こういうおかげはないのです。今日目が覚めた。その事に対してです心からお礼が言えれるような信心が生まれて来るのですからね、いわゆる神徳の中に生かされておると言う事のおかげをです。言うならば如実におかげの上に現して行く事が出来る。神徳の中に生かされておる証拠なんだ。お金に不自由する事がない。ね、薬の御厄介になる必要がないね、人間の幸せの全てがですこの神愛の中にあるのです、神徳の中にあるのです。
人間の幸福の条件の全てがそこに、そこにここにあるのです。いや私の中にあるのです。だからそれを現しておる人を、御神徳家と私は言う訳です。ね。ですからどうでも一つおかげを頂きましてね。愈々私共のねそのまあ言うなら小さい我。そういう小さい我を振り捨ててです。ね、私共が大きな我のために。ね、小欲を捨てて大欲に生き抜けとも頂いた。小さい欲を振り捨てて言うならば大きな欲のために、それは神様が願われるほどしの欲であり、神様が願われる程しの我であると言う様な。
大我を頂き抜かせて頂く為に、今の合楽示現活動に参画すると言う事はです、そういう運動に本気で参画させて頂く内にです、もう自分の小さい事なんか問題が問題で無くなって、来るようなおかげを必ず心の中にも、形の上にも頂き現して行く事が出けるのです。昨夜遅うここに出て参りましたが。丁度お初穂の整理が終わって、そこへ私が必ずまた、一通り一偏通りあの見るんです。それ見せて頂いております中に、伊万里の竹内先生のお初穂がありました。
これはもう度々の事ですけれども、何とはなしに心ひかれたから、それを今日は選り抜かせて頂いたんです。ね、こういう風にちゃんと肩に書いてある。読んで見ましょうかね、竹内通教の、伊万里の市長さんです。9月11日、合楽の示現を市制にと願ってあります。合楽示現を自分の市制の上にです、現させて下さいと言うのです。だから素晴らしいですね。ですからねなら皆さんが例えば、魚屋さんであり呉服屋さんであるならばです、自分の〇〇商店の上に合楽示現を示現させて下さい。
させて下さいという願いを持たなきゃいけんのです。そう言う事でしょうが。人にお話をしたり、おかげの泉を売る事だけが示現じゃないです。本当は自分のいわば家庭の上に、自分の店の上にもです。ね、合楽の示現を、ね、市制にと願っておられます。次には寒天危地と。ね、さっきの御理解の言葉です。言うならば神も喜び氏子も喜べれるような世界を顕現させて下さいという願いなんです。9月10日昨日の10日の月次祭ですね。これは合楽合楽示現と書いてある。
12日のお願いに市会一般質問と言う事が。ね、市長さんにいろんな、皆さんが質問するでしょうが。そん時に私竹内道通が返事するのじゃない、神様貴方が一人ひとりの市民の質問に答えて下さいという、祈り願いを込めておられる訳です。素晴らしいね。こういう、例えば伊万里市のような市がです。ね、言うならば日本中に、いや世界中に広がって行く事のために、どうでも政治家、ね、大物の上に示現活動がしなきゃいけん。ね、福岡の市長さんにも久留米の市長さんにも。ね。
久留米の市長さんがお参りになって、この一日にはやはり合楽市制。この前のもうお参りの時に、合楽を久留米市に現させてもらうと言うておられました。また今度のお参りの時には市制です。の事についてのお願いがありました。そう言う事を聞いて言うならあの、高田さんですか。福岡市長にもその事を、福岡市民のためにどうぞ合楽にお参りして下さい、おかげの泉を読んで下さいと言うて持って行ったっち。ね、こう言う事になって来るとです。これはもう自分の我ではなくて大我です。
神様の願いなんですからそれが。ね。次に9月の12日教育長御願い。教育長の方が先般亡くなられた。だから後にどうでも良い教育長の方の人選をお繰り合わせを願うという事でございましょう。9月10日、月次祭御礼とあります。これはまあ沢山竹内先生のところからお初穂が来ております。その中に竹内先生の名前のものだけを、これは選らせて頂いたんですけれどもね。これがまた奥さんの事になって来ると、もうそれこそもう微に入り細に渡っておるお届けがしてございますまだ。ね、
それこそ御霊様の世界の事までお願いしてあります。昨日は丁度あちらのお婆ちゃんの御霊の帰幽日でしたから。その帰幽日の事についても、ちゃんと色々とあのお願いがしてございます。行き届いて私はあの信心が出ける。実意丁寧神信心というのが合楽、金光教の信心の言うならば芯のようなものですから。お互いやっぱり行き届かなきゃいけませんですね。そういう例えば今、言うなら竹内先生の事を聞いて頂いたんですけども、そう言う様にですもう自分とか、自分一家という事ではなくてです。ね、
言うならば世界に合楽示現活動を広めさせて頂こう、光の輪を愈々輪を輪に大きくして行こう。言うなら光輪の世界をこう、辿らせて頂こうと私が申しております、そういう運動に参画する事は私は取りも直さず、ね、大きな信心であると同時にです。ね、本当の意味においての神様の御信用。言うなら御神徳を受けて行けれる道であると思います。ね。今言うならば表行が現在の合楽では、もう断たれておる。ね、表行なんかという訳じゃないけども表行なもう言うならばです。ね。
水を被ったり火や水の行と言った様な行はです。ね。もう合楽の信者の中には一つ
(B面に)
をです、ね、神様の心に添い奉ろうという神道なんです。ですからです。それこそね表行時代には、それこそ人間が下から上へ水を流すほどしに難しかった事がです。ね。上から下へ水を流すように、神様の言うなら他力本願的な、そのおかげの言うならば現れというものが、現在毎日合楽で起こっておる所の奇跡的おかげと言う事になるんです。ね。ですから例えばお日参りぐらい、言うならば惜しまれるぐらい行の内にしなければならん。ね、
成り行きをいよいよ大事にして行く、それに徹底させて頂く、言うならば家業の中にもそれを頂いて行かなきゃ
(ちょっと、テープ切れ?)。
おかげが受けられるというおかげ。ね、金光大神は形が無うなったら、来てくれという所へ行ってやると言う事をです、御神徳の理屈だという風に今日は聞いて頂きましたが。そういう御神徳を目指し、願わせて頂く信心。ね、それを今合楽では合楽示現活動にと言うて、参画に向かうと言うならば、心の状態をお繰り合わせ頂いておる。ね、その神様の願いである願いに応えて、活動させてもらおうと言うのですから。ね、御神徳の極地を目指して信心の稽古をさせて頂くと言う事にも、通ずるのでございます。
確かに信心は神はさすと仰るから、銘々に我を出さぬようにしてと、三代金光様が教えておられます。確かに信心は自分でしようとして、出ける事ではありません。神がさせて下さるのです。皆さんが今日参ろうと思うたけれどもです。実際は神様が参らせて下さってあるのです。ね、だからそげな所の、本当な事を分からせて頂いて、愈々信心に打ち込ませて頂きたいと思います。
どうぞ。